26.2.19
私の専門は日本美術史、なかでも仏像を専門にしている。特に平安時代後期から鎌倉時代に活躍した仏師運慶とその仏像を研究テーマとしてきた。 美術史は、美術作品を研究対象とし、そこからその背景にある当時の文化や歴史を知ることのできる学問である。歴史学では古文書などの史料(文字資料)を第一に研究をおこなうが、美術史の場合は美術作品そのものを研究対象とすることが大きな特徴と言える。そのため、美術作品の調査をおこない、造形の特徴や作り方などを作品そのものから分析する。これに加えて、作品が作られた歴史的背景や作者の生涯などを史料から分析し、作品そのものと史料からの検討の両者を総合して、さまざまな観点から美術作品の歴史的な価値や位置づけを明らかにすることを目指している。
私自身の研究の出発点は、安元2年(1176)に仏師運慶が作った奈良県円成寺大日如来像を大学の卒業論文で取り上げたことに始まる。この像は運慶の現存最古の作で、おおよそ20代頃の作と考えられている。大学2年生のときに大学の授業で円成寺へ行って間近に拝見した際に、背筋を伸ばした姿勢や組んだ足の肉づきや立体感から、まるで人が座っているかのような現実味のある姿に感動し、印象に残ったのがきっかけだった。 ここで、円成寺像が作られた頃の仏像の表現がどのようなものであったかを説明すると、円成寺像が作られた平安時代最末期は、仏像の様式の転換期を迎えていた。運慶より前の時代、11世紀後半から12世紀にかけて仏像の規範となったのは、天喜元年(1053)造立の平等院鳳凰堂阿弥陀如来像に代表される仏師定朝の仏像だった。その後、12世紀半ば以降になると、運慶を遡る「奈良仏師」と呼ばれる工房に属する仏師を中心に、それまで全盛だった定朝の仏像とは異なる新しい表現を少しずつ取り入れるようになる。そして鎌倉時代に入り、運慶の父康慶や運慶らによって、力強く現実味のある新しい仏像の表現が完成する。こうした時代の転換期に活躍をしたのが運慶だったのである。 研究で興味を持っていたのは、鎌倉時代の新しい表現がどのように成立したかというその過程や、運慶とともに鎌倉時代らしい新しい仏像様式の確立に貢献したとされる運慶の父康慶と運慶の仏像との違い、父子の表現における影響関係の有無などだった。こうした問いを、仏像そのものの検討から具体的に明らかにしたいと考えていた。また、定朝以降、都を中心に活躍する仏師の系統(工房)は「院派」「円派」そして運慶が属する「奈良仏師(慶派仏師)」の3派だった。表現の転換期に伴い、3派それぞれがどのように鎌倉時代の新しい表現を模索していったのか、仏師系統ごとの違いを明らかにしたいと考えていた。
仏像そのものから表現の変化を追う方法のひとつとして、仏像の髪型や頭部をめぐる「天冠台」という部分の装飾、着衣など、細部の形式から変化を追うことをおこなった。平安時代から鎌倉時代に作られた仏像を中心に調査、見学、写真収集をおこない、細部形式のサンプルを収集し、年代順にその変遷を追った。その結果、髪型、天冠台、着衣などいずれも平安時代後期(定朝以後)と鎌倉時代の形式は異なることや、特に着衣では「奈良仏師」とそれ以外の系統の工房では形式が異なり、当時の仏師の工房の違いが出ることなどが明らかになった。こうした細部形式は仏像の一部のみの変化を追う研究であるが、制作年代や仏師系統(作者)を推定するための指標として仏像の編年に貢献するとともに、時代の変化を作品から具体的に追うことのできる視点である
上記の細部形式の研究は、年代がわからない仏像の制作時期の推定や、仏師系統(工房)の判別に役立つことができたが、同じ工房の康慶と運慶などの場合、細部の形式は工房でほぼ統一されていたため、大きな違いを見出すことはできなかった。そこで、もう一つの問いであった父康慶と子であり弟子である運慶の造形上の違いについては、細部形式の研究を発展させながら、別の観点から検討をおこなった。つまり細部形式が共通する仏像を比較することで、相違点を抽出し、そこに作者の個性や独自性がみられないか検討した。例えば前述の運慶作円成寺大日如来像と、康慶工房の作と推定した浄瑠璃寺大日如来像とを比較すると、細部の形式は共通する一方で、円成寺像では腰をめぐる腰布と呼ばれる着衣の皺(「衣文線」)を台座に近づくにつれて間隔を狭く彫り、布がたわむさまを現実的に表現していた。一方で浄瑠璃寺像には衣文線を等間隔に彫る傾向があり、これは康慶作の仏像の特徴と共通していた。運慶作の円成寺像の方が、浄瑠璃寺像よりもより現実的な服の皺の表現がなされていたことがわかった。 このほかに浄瑠璃寺像や康慶作の仏像は、胸や腹などの肉づきがなだらかで、肉づきに抑揚がある運慶の円成寺像よりも穏やかな傾向があることも明らかになった。康慶の仏像や浄瑠璃寺像にみられる穏やかな肉づきは、平安時代後期の仏像と共通するより古い表現とも言える。康慶の仏像にこの特徴がみられるのは、平安時代後期12世紀半ば頃からすでに仏師として仕事を始めていた康慶と、運慶との年代差と考えられる。父子の間に表現の差がみられるのも、2人が生きていた時代が仏像表現の転換期だったことが大きく関係していると言える。 このように共通する細部の形式に着目し、そこから表現上の相違点を抽出することで、それぞれの仏像の特徴を明らかにすることができる。さらに同一作者のほかの仏像と比較し、その特徴が共通するものならば、その作者の個性、独自性と考えることもできる。仏師は、経典などで決められた仏の姿・形をもとに仏像を作るため、一定の制約があるなか制作をしている。また、時代によっては仏師の個性がみえにくい場合もある。しかし、時代の転換期ということもあってか、運慶が生きた時代の仏像の場合、同じ作者の作品同士や他の作者の作品との比較をおこなうことで、それぞれの作者の個性をうかがい知ることができる。運慶だけではなく、康慶や、康慶の弟子でもあった快慶の仏像にもそれぞれ表現上の特徴、いわば個性がある。鎌倉時代の仏像におもしろさを感じるのは、こうした作者の個性ともいうべき特徴が垣間みられることも一因だろう。
ここで話題を仏像から変えて、現在共同研究でおこなっている研究を紹介したい。美術史は美術作品を対象に研究を進めるのが主であるが、これまで紹介した方法とは異なる史料を用いた研究の事例から、美術史研究の多様性を紹介したい。 2022年度から、中泊町と本学とで共同研究「宮越家資料調査研究」(代表 人文社会科学部 原克昭教授)を実施している。9代宮越正治氏は、当時の近代日本画家と直接書簡を交わしたり、美術品の入札会で購入するなどして、同時代の日本画を中心に美術作品を収集していた。宮越家には宮越正治氏に宛てられた下村観山、木村武山、平福百穂、橋本関雪、渡辺省亭ら近代日本画家の書簡が残され、書簡を解読することで、近代日本画家がどのように注文を受けて作品を制作していたのかを知ることができる。例えば渡辺省亭の書簡21通からは、注文した絵画の主題の変更や代金に関すること、完成した作品を正治氏のもとへ郵送していたことなどがわかる。また、後述する売立目録に写真が掲載される渡辺省亭の《桜花雉子》に関する制作事情も、書簡から知ることができる。 正治氏が収集していた絵画、工芸品は、昭和6年(1931)に東京美術倶楽部でおこなわれた入札会で売却されたが、その目録である売立目録も残される。研究では売立目録掲載の作品の追跡調査をおこなっており、近現代に刊行された美術関係書籍の探索や別の売立目録の調査などから、現時点で平福百穂《獅子》(宮城県美術館蔵)、橋本関雪《煉丹》(個人蔵)など4点の現存が確認できた。美術作品は、作られた当初から所蔵者が変わらないこともあるが、どの時代の作品においても、時とともに所蔵者が変わり、移動することも多い。宮越家の書簡や売立目録からは、正治氏の豊富な美術コレクションを知ることができると同時に、どのように美術作品が伝わってきたのか、その来歴を知ることもできる。美術作品そのものだけではなく、それを各時代で守り伝えてきた人々についても明らかにすることができるのである。
美術史では、何百年も前に作られた作品について研究をする。遠い過去の出来事のようでありながら、今私たちの目の前にある作品と、時を超えて向き合うことができるのも研究の魅力のひとつだろう。また、宮越家の例で紹介したように、作品は制作されてからさまざまな人の手を渡って伝えられている。現在にまでつながる作品を守り伝えてきた人々の存在についても注目していきたいと考えている。