弘前大学人文社会科学部
文化創生課程 文化資源学コース


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ゼミ・研究室紹介

東アジア思想研究室/李 梁(教授)

東アジア思想のワールドへのいざない

ようこそ、東アジア思想と文化のワールドへ!

  今から約2千500年ほど前、中国河南省東部にある商丘という小さな町の漆林の管理者に荘子という人物がいた。知る人は知るが、荘子と言えば、胡蝶の夢、また老子とともに、道教の思想的祖であったことを思い出すだろう。しかし、後に中国本土のみならず、東アジア諸国の社会的、思想的風土の中で、圧倒的な地位に居座り続けた儒学または儒教に比べてみても、『荘子』を繙けば、その思想が如何に一風変わったか、いや、正しく言えば、いかに奇抜天外なのかはよくわかる。たとえ儒学が荘厳な正統性を特徴とするならば、老荘は、その対極的な特質は、自由奔放さ(逍遙)とすべての二元対立の解消(万物斉同、万物一体の仁)に尽きると言えよう。とはいえ、荘子は、決してひたすら対立の解消(例えば、生死を同一視すること)を主張したり、逍遙遊(無為自然)のような寓話世界に浸ってばかりいるというわけでもない。その著書の中にも随所鏤められている格言、名言が今でも後世のわれわれを惹きづけてやまない。例えば、「朝三暮四」とか「我が生や涯てありて、知や涯なし」とか「大知は閑々たり、小知は間間たり」(大いなる智慧はゆったりとしており、一知半解の知恵はセカセカしているという意)など、ひいていえば、東アジア思想と文化のワールドは、正にそうした儒、道二重奏によって紡ぎ出された精神世界ではないかと思われる。東アジア思想風景の原点もそこにあるではないかと言える。
 さて、まず東アジアとは何かをより具体的に見てみよう。ここで、便宜的に、地理的範囲、文化的伝統、そして政治的角度、という三つの側面から見ていきたい。
 まず、地理的範囲からみて、東アジアは、広狭二義がある。ここで、広義的な東アジア範囲は暫く置いておく。狭義的な東アジアは、端的に言えば、つまり、日本、中国、韓国(あるいは朝鮮半島)という三国を指す。本講義内容の及ぶ範囲は、主として、ここに限定される。そして、東アジア三国は、むろん、各々確乎たる独自の文化的伝統があるが、前述したように、その思想的風景の原点は、間違いなく、共に儒、道の協奏によって紡ぎ出された精神的世界にあると言ってよかろう。いわゆる漢字文化圏、または儒教文化圏というフレーズは、そうした意味のことばであろう。さらに、漢代以後、限りなく政治社会に近くなった儒学、とりわけ、社会生活の規範から、政治秩序の原理とも成り得た新儒学、つまり朱子学は、ある政治思想家の言葉を借りて言えば、即ち東アジア思想の「通奏低音」となったわけである。本講義では、こうして東アジア三国に展開された思想的風景とその意味するものを皆さんとともに読み解くものである。

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