文化財科学の学問や研究室の活動を紹介する前置きとしまして、文化財科学が携わる仕事現場について紹介します。
皆さんは、博物館や美術館へ遊びに行ったことはありますか?そこには、得体のしれない、けれども妙に心が高揚する先史時代の土器・土偶や漆工品、歴史時代の人間が生み出した美しい彫刻や絵画などの芸術作品があります。現代社会において、こうした文化財は、わたしたちの心や生活のお供として、かかすことのできないものとなっております。
さて、博物館や美術館に展示された文化財を見る際に、不満や疑問を感じたことはありませんでしょうか。例えば、ガラスケース越しではなく、直に見て・触って、造形の美しさをより鮮明に感じたい!また、さっきの展示ブースは明るかったのに、こっちの展示ブースは暗くて作品がよく見えない!さらに、こっちの展示ブースに入った途端、蒸し蒸ししだした(湿度が高くなった)と敏感に感じたことはありませんか?
これらの対策は、すべて文化財を守るために行っているものなのです。触れば当然、壊れてしまうリスクが高くなり、これは、一般常識の範囲内でわかっていただけるかと思います。一方で、ブースごとの明るさや湿度の違いを設けているのはどういうことでしょうか。
明るさは、光の表現のひとつですが、光といっても、人間の網膜が感知できる光(可視光)、できない光(紫外線や赤外線など)があります。そして、明るさの違いにより、文化財へダメージを与える影響の大小があります。光のエネルギーによって、10年、50年、100年経つと、文化財を構成する素材によっては、色が変わってしまうことがあるのです。例えば、有機材料で構成されている東洋絵画や漆工品、木製品などは光に敏感であるため、より暗い照明を使うべきであり、土器や石器など無機材料で構成されているものは、明るくしても良いという判断のもと照明の明るさを調整しているのです。なお、紫外線はとても強いエネルギーを持っているため、文化財用の照明にはそもそも紫外線が出ないようされています。
湿度は、空気中に含まれる水蒸気の割合です。博物館展示では、これを一定に保つことが重要です。例えば、“木は呼吸する”と表現されるように、木製品(木彫仏など)は、まわりの湿度に合わせて、水蒸気を吸着したり、脱着したりします。その際に、ひずみが生じ、場合によっては割れたり沿ったりしてしまうことがあります。ここで、一定にするといっても低すぎてもいけません。漆工品であれば、乾燥した環境に漆工品を展示し続ければ、漆塗膜が剥げてしまうこともあります。素材の違いに応じた適切な湿度環境があるのです。
以上の保存対策は、文化財保存の一部分です。そして、現代の博物館・美術館では、文化財科学専門の学芸員さんの様々な保存・展示環境対策により、文化財は守られているのです。
文化財科学研究室は、2016年4月に新設されました。現代の文化振興に必須な文化財保存に係る専門知識と技術の習得が社会的に求められ、人文学部が2016年4月に人文社会科学部へと発展したことを機とし、文化資源学コースに誕生しました。
文化財科学の学問としての大目標は、文化財を“文化財としての価値”を損なわないように、今あるカタチのまま、後世へ伝えることです。上述したように、博物館や美術館でみている考古資料や東洋絵画、西洋絵画、彫刻、漆工などの文化財は、人的・自然的な原因で劣化していまい、価値を損う危険があります。これを防ぐため、文化財科学は学問として、「文化財の構造や機能、劣化メカニズムについて研究し、劣化を診断・治療・予防する方法を開発」しています。特に、文化財保存に関する学問を“保存科学”といいます。そのうえで、文化財科学者は、「文化財の劣化を診断・治療・予防する人」となります。文化財科学者のこの行為を、我々は“修復”であるとか“保存処理”と呼んでいます。
さて、不思議に思う方がいらっしゃるかもしれません。なぜ、文化資源学コースに、いわば、文化財のお医者さんのような学問があるのか、そして、文化財「科学」というように、どちらかといえば理系分野に属すような自然科学領域の学問が、本コースにあるのかと。この疑問に対しては、次のように答えることができます。まずもってして、文化財の価値とは何か。保存対象とする文化財は考古、芸術、民俗など多岐にわたり、それぞれに価値と保存倫理があります。これを知らなければ、劣化した文化財をどのように修復したらよいのかわかりません。また、劣化を未然に防ぎたいけれども、防ぎ方によっては価値を損なってしまうかもしれません。これに対して、弘前大学の文化財科学研究室では、文化資源学コースの日本考古学、文化財論、芸術史、民俗学など、文化と歴史、これらを語るヒト・モノとしての文化財を扱う研究室の先生方と連携しており、価値や倫理を協議し、学んだうえで、保存することができます。これこそが弘前大学の文化財科学の強みといえるでしょう。
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文化財の健康を診断したい。外観の観察からはじめてみよう。肉眼では何も問題がないように思える。しかし、ミクロの世界ではどうだろう。拡大してより高解像度で観察したい。さて、外観では問題ないようだ。では、中身はどうなっているのか。壊せば中身が観察できるけれども、それでは文化財保存の倫理にもとる。こうした文化財の健康診断の流れと各ステージの欲求から、文化財の非破壊透視技術と解析が発展してきました。
弘前大学の文化財科学研究室では、“本物の文化財”の診断と保存処理実習を通して、博物館における文化財保存業務の実践力を身につけます。各診断ステージで使う観察機材を揃えており、文化財のミクロの世界の観察では、電子顕微鏡(蛍光X線分析装置付き)(写真1)やデジタルマイクロスコープ(被写界深度合成機能付き)を使い、そして、非破壊透視装置として、X線マイクロCTアナライザー(写真2・写真3)を日常的に使用しています。また、保存処理の実践では、“本物の考古資料”を通して、考古資料(有機材料)強化含浸装置(写真4)、真空凍結乾燥機(写真5)、ディープフリーザ等を使って、保存処理実習を進めております。
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弘前大学の文化財科学研究室のメインテーマは保存科学的研究ですが、劣化診断技術は文化財保存分野だけの活躍に留まりません。非破壊透視技術と解析では、文化財の内外面からあらゆる情報を抽出できますが、これらは考古学や文化財学をさらに発展させるものです。さらに、人文社会科学部文化資源学コースの他の学問分野だけでなく、本学農学生命科学部や理工学部と連携・協力しており、学部の枠を超えた、まさに文理融合的な研究へと向かっております。ここでは、弘前大学の文化財科学研究室がリードする、最新の非破壊透視技術と解析で紐解く縄文漆器研究を紹介します。
遺跡からは、土器や石器など無機材料だけでなく、条件がよければ有機材料である木製品や漆製品が、とても脆い状態で発見されます。これらの有機材料の展示のためには、そもそも保存処理すること自体が非常に難しいものです。(ここでは割愛しますが、もし、ご興味があれば弘前大学の文化財保存処理ラボへ遊びに来てください)。さて、稀に発見される縄文漆器は、当時の縄文人の文化・生活水準が高いこと示す貴重な資料です。縄文漆器に対する考古学的なアプローチといえば、土器や石器などのように、形状や模様や作られ方、素材等を観察し、そこから規則性を発見し、過去人類の生活や社会を考えわけですが、近年の文化財科学分野における非破壊透視技術と解析の発展により、こうした外観の観察だけでなく、内部の構造までもが鮮明に捉えることが可能となり、学問領域の垣根を超えた連携がもはや日常となりました。
写真6は、縄文時代の終わりごろ、今から2,500年前の北東北地方の縄文人が使っていた飾り櫛で、漆によって櫛の頭が成形されているものです(秋田県五城目町中山遺跡出土)。櫛の歯部分は劣化により欠けており、頭の部分だけが残った状態で発見されました。これについて、X線マイクロCTアナライザーを使って非破壊で断層観察してみました(写真7)。画像の観察方法ですが、白いほど密度が高く(何かある)、黒いほど密度が低い(何もない)状態を表します。櫛の歯は頭の中まで貫入しており、しかし、歯自体は劣化により消失していることがわかります(写真7矢印A)。さらに、歯同士は紐で結んで固定していることが明らかとなりました(写真7矢印B)。この断層像の枚数が、厚み分だけの数、約1500枚あります。すべての断層像を、もうちょっと綺麗に簡単に観察したい、できれば紐っぽいところや櫛歯っぽいところに着目して。そこで、これらの部分だけを見せるように画像処理した後、立体視(三次元モデル化)してみました(写真8)。すると、櫛歯のカタチだけでなく、撚った紐自体がモニタ上に浮かび上がりました。縄文時代の“縄文”という名前は、エドワード・S・モースが1877年に大森貝塚(東京都)から発掘した土器を“Cord Marked” Potteryと呼んだことに由来していますが、まさに、この縄文の原体がみえたのです(紐は劣化により消失してますが)。そして、どうやら結び方に規則性がありそうです。
漆櫛は、縄文文化期に北海道から近畿圏まで広域で発見されています。現在、弘前大学の文化財科学研究室では、この“中身”にも注目して、製作技術の違いはあったのか、同じならば地域間どのような経路で技術・交易伝搬したのか等の研究を進めております。また、このような三次元モデルであるデジタルデータは、展示・活用の発展にも貢献できそうです。考古資料のバーチャルリアリティ体験、3Dプリンタによる触れる展示体験、文化財科学の活躍する場は今後大きく広がるでしょう。